○鬱
人はうつになる(ひらがなだと紛らわしいので以後、鬱と表記する)。鬱には二種類あって、抑鬱(よくうつ)状態と鬱病がある。この二つを区別しなければならない。
私の叔母は鬱病だ。精神障害者保健福祉手帳を持っていて、障害年金も受給しているから本当の鬱病である。詳しくは書かないが彼女は壮絶な人生を送ってきた。人生のそれらの出来事が彼女を鬱病にしたのか、鬱気質であった彼女が人生の荒波に抗いきれずに鬱になってしまったのか、それは鶏と卵の話だろう。いくつかの出来事がなければ彼女は鬱にならなかったかもしれないが、人には鬱のいわゆるrediness――準備性があり、それが出来事に直面することで抑鬱状態となることも確かだ。そして鬱病に至ることもある。私は彼女と同じ血を引いている(つまり祖父の血である)。鬱が遺伝するとは言わないが、次に述べる「完璧な」仕事をしようとすることがtrigger――引き金になるのだろうと自戒している。
完璧主義者が鬱になりやすいという。私が病院で働いていた時に訪問看護で知りあった鬱病の患者さんはとても優秀な人だった。県下トップの高校(男子校)に進学し、数学や物理学ではそこで一位、二位の成績を競ったという。しかし大学を出てから就いた仕事がうまくいかなかった。人間関係に悩み、やがて仕事でも成果を挙げられなくなり退職した。紆余曲折の二十年を経て病院から退院し訪問看護を利用した。彼のいわゆる「予後」は書かない。私が彼を思い出す時、私は彼がなぜ良い仕事ができなかったのかを考える。
○仕事
仕事ができる、否、できるとまでは言えなくても「仕事が続けられる」とはどういうことだろうか。完璧な仕事は長く続かない。特に自分一人ではできない仕事、相手のある仕事は完璧にはできない。完璧な仕事ではなく、より良い仕事ができれば良い。それは人は少しでも前に進んでいると感じられれば生きていけるという哲学の幸福論に似ている。悪くて現状維持の仕事だ。今あるものを毀損しない。減滅させない。今あるものを維持存続させていくという類の仕事がある。例えばリハビリテーション(更生)の仕事はそういう仕事である。
「良くしようとすることはやめた方がよい」と教えてくれたのは私の大学の恩師だ。アルコール依存症の患者さんに関わる中で見出された言葉だ。良くしようとすることの中にも暴力がある。それは人を自分に従わせようとする暴力である。一方で責任を果たす仕事がある。自分の思いや考えを人の言動に反映させる福祉の仕事――私が今就いている対人援助の仕事には責任が伴う。自分の思いや考えがなければ人の何を援助し助言するのだろう。責任を負うことのできる対人援助の仕事は良い仕事だと思っているが、そこには暴力が伴う。暴力――一種の強制力をもって働くから、その責任を負おうとするし負わなければならないと感じる。
鬱と仕事とを考えると斯様に話が循環する。完璧な仕事をしようとすると鬱になってしまうが、責任を負う仕事には完璧さが求められる。このグルグルした感じが、まさに鬱の思考なのだろうと思う。